新しい為替相場メカニズムの決定へ ━━ 欧州通貨統合の歩みと現状 荒井 耕一郎 1 はじめに  昨年12月に開催されたマドリード欧州理事会は,EMU(Economic and Monetary Union、経済通貨同盟)達成に向けた第三段階を1999年1月1日に開始し、単一 通貨であるユーロをこの日から導入することを確認した。来月中旬にダブリンで開催 される欧州理事会では、単一通貨ユーロの使用に係る法的枠組み、新しいERM(Ex change Rate Mechanism,為替相場メカニズム) 、財政節度の遵守を規定した安定協定(Stability Pact) の中身について議論され、決定される予定である。以下では、EMUの歴史を簡単に 振り返るとともに、経済収斂条件の達成の現状について、説明する。 2 EMU構想の歴史  欧州の統合は過去、多くの困難や崩壊の危機を迎えながら、そのたび毎にこれを乗 り越えて進展してきた。欧州各国の利害が絡んでなかなか合意の着地点が見出せなか ったり、なんとか着地点を見出せても国際通貨危機の波に洗われ統合の勢いが鈍った りで、一見すると統合への動きは一歩前進一歩後退、場合によっては一歩前進二歩後 退と見える状況すらあるが、大きな視点で見れば、欧州各国は「政治・経済統合」と いう究極の目標に向かって長い困難な道のりを着実に歩んで来た、と言うことができ よう。 (1)ウェルナー・レポート  EMUの構想は、1969年12月にハーグで開催された欧州6か国首脳会議の決 定にもとづき、1970年10月にウェルナー、ルクセンブルク首相を議長とした委 員会がまとめた報告書(通称「ウェルナー・レポート」と言われる)に遡る。ウェル ナー・レポートでは、1971年から10年の間に域内為替変動幅をゼロにするとと もに、資本移動の完全な自由化と金融市場の統合を実現することが提言され、そのた め経済調整と為替変動幅縮小を段階的に図っていくことが提案されていた。また政治 的な統合を伴わない限り経済通貨同盟は実効性を欠いたものになるという点を指摘す るなど、今日のEMUの問題を正確に洞察したものだった。EC諸国は1971年3 月に開催されたEC首脳会議でウェルナー・レポートに沿い,EMU実現に向けて具 体的に動き出すことが決議された。しかし、1971年8月のニクソン・ショック( 金ドル交換性停止)を契機にブレトンウッズ体制が崩壊し、先進国は変動相場制の時 代を迎えたため、1980年までにEMUを創設するというウェルナー・レポートの 提言は頓挫することになった。 (2)ドロール・レポート  1988年6月にハノーバーで開催された欧州理事会の決定に基づき、EMUの創 設を検討するドロール委員会が結成され、その検討結果は「ドロール・レポート(E Cの経済通貨同盟に関する報告書)」として、1989年4月に発表された。ドロー ル・レポートでは、「経済同盟と通貨同盟は相互に欠くことのできない二つの部分を 構成する」と、その不可分性を指摘した上で、単一通貨に関しては三段階で導入する ことを目指し、経済政策・金融政策の協調強化による経済パーフォーマンスの収斂を 実現する第一段階は、遅くとも1990年7月1日より開始することを提案した。 (3)マーストリヒト条約の締結  ドロール・レポートに関して、各国の反応はいくつかのグループに分かれたが、イ ギリスを除いて、各国ともにEMU創設には賛成であった。その後各国による活発な EMU議論を経て、1991年12月にオランダのマーストリヒトで開催された欧州 理事会において,ECの憲法ともいわれるローマ条約改正のための「欧州連合条約( マーストリヒト条約)」が合意され、EC加盟各国の批准を経て1993年11月1 日に発効した。マーストリヒト条約では、ドロール報告と同じく三段階の過程を経て EMUが完成されることになっており、①第二段階は1994年1月1日から開始さ れ(欧州中央銀行の前身となるEMI(欧州通貨機構)の設立、第三段階移行への準 備等がなされる)、②1996年12月31日までに加盟国が過半数以上が単一通貨 導入に必要な条件を満たしているかどうかを等を欧州理事会が判断し移行日を決定す る、③この場合、1997年12月末までに第三段階への移行日が設定されなかった 場合には、第三段階は1999年1月1日から開始される、と規定されている。 (4)単一通貨導入に係るスケジュールの再確認  1995年6月カンヌ欧州理事会において、同年12月の欧州理事会までに今後の 単一通貨導入スケジュールを具体的に策定し決定することが合意された。これを受け てEMIは同年11月に「単一通貨への移行("The Changeover to the Single Currency"という報告書を提出した。EMI報告は、移行に関する技術的制約を考慮 した上で、単一通貨移行を成功させるため、単一通貨に係る明確な法的枠組みを含む いくつかの原則をを提示し、単一通貨導入完了まで二つの通貨(単一通貨と各国通貨 )の併存を認め、また単一通貨の導入段階について非現金取引(大口取引)と現金取 引に分けて導入することを提案している。このEMI報告は、1995年12月のマ ドリード欧州理事会に提出され採択された。決定された単一通貨移行のシナリオは, EMIの報告に沿ったものであり、次に述べるようにベンチ・マークとなるべき具体 的な期日が決定された。また単一通貨の名称をユーロ( Euro )とすることが決定された。 3 EMU実現のためのスケジュール 1995年12月のマドリード欧州理事会では、EMUへの準備期間を経て、単一通 貨であるユーロが導入され、各国紙幣・硬貨がその法定通貨としての役割を失うまで の期間を3つの段階(フェーズ)に分けているが、それぞれの段階における重要な事 項を述べれば下記の通りである。 (1)第一フェーズ  1999年1月1日までの期間は、EMUへの準備期間で、主に下記のことが行わ れる。 ・1998年の早い時期に、 1997年の経済データをもとにEMU加盟国が決定される。 ・EMU加盟国の決定と同時にECB(European Central Bank、欧州中央銀行)を設立す  る。平行して、EMUを効果的に運営するために必要な立法措置が取られる。ユーロ紙  幣・硬貨の生産を開始する。銀行・金融機関、行政機関は、ユーロの使用を円滑に進め  るための準備を行う。 (2)第二フェーズ  第二段階は、(1999年1月1日から遅くとも2002年1月1日までの期間で 、主に下記のことが行われる。 ・1999年1月1日に各国通貨とユーロとの換算相場の不可逆的固定が行われ、ユーロ  導入に必要な法律が施行される。ユーロはEMU域内の単一通貨としての地位を得る。 ・ECBは、EMU域内の中央銀行として、ユーロによる金融政策・為替レート政策を実  施する。 ・新発の公共債は、全てユーロ建で発行される。 ・金融市場における銀行や金融機関の取引は全てユーロ建で行われ、決済制度であるTA  RGETの運営が開始される。。 ・公共企業、民間企業、行政機関は、ユーロの使用を進める。 ・一般の人々に新しい通貨であるユーロに係る情報宣伝活動を活発化する。  (この期間においてはユーロ紙幣・硬貨はまだ流通していないので、各国の紙幣・硬貨  は引き続き使用される。) (3)第三フェーズ 第三段階は、(2002年1月1日から遅くとも2002年7月1日までの期間で、 主に下記のことが行われる。 ・ユーロ紙幣・硬貨の流通が開始される。これに伴い各国の紙幣・硬貨の回収があ開始さ  れる。行政機関、銀行、金融機関、公共企業、民間企業は全ての取引にユーロを使用す  る。 ・2002年7月1日までに、各国紙幣・硬貨は法定通貨としての地位を抹消され、ユー  ロがEMU地域の単独法定通貨となる。 4 EU各国の経済収斂条件の達成状況 (1)マーストトリヒト条約の規定と経済収斂条件の具体的中身 マーストトリヒト条約では、厳格な基準による持続的な経済収斂が達成できない国は EMUに参加できないと規定されている。各国の経済収斂条件達成状況に関しては欧 州委員会とEMIが調査し、欧州理事会に対して報告書を提出することになっている 。マーストリヒト条約に規定された経済収斂条件は下記の4つである。 ①物価安定に関する条件(1995年の収斂条件となるインフレ率は2.7%であった。  1996年について、欧州委員会は2.6%と予想している。) ②政府の財政赤字、債務残高に関する収斂条件(財政赤字については、通貨統合の時点で  GDPの3%以内、政府債務残高は同60%以内とされている。) ③為替レート安定の条件(通貨統合の直前の最低2年間、当該国の通貨がERMの通常の  変動幅(現在は上下15%)に収まっていることが条件である。) ④金利に関する収斂の条件(通貨統合の直前1年間の各国の長期債(10年国債または同  等の債券)の平均利回りを比較して判断する。1995年の収斂条件となる長期金利は  9.7%であった。1996年について欧州委員会は8.7%と予想している。) (2)各国の経済収斂条件の達成状況 第1図および第2図は、1996年11月に発表されたEMI報告における、199 6年の各国の経済収斂条件にかかる予想値を図示したものである。 ①第1図に見られるように、殆どの国で低いインフレ率を達成している。1996年9月  までの1年間で、最も物価が安定している国は、フィンランド、オランダ、ドイツであ  る。達成目標値よりも高いインフレ率の国はギリシャ、スペイン、イタリア、ポルトガ  ル、イギリスであるが、これらの国においても達成目標値との乖離は以前より縮小して  おり、改善が見られる、とEMIは分析している。 ②財政赤字については、デンマーク、アイルランド、ルクセンブルク、オランダの4か国  が、3%の基準を達成し、ドイツを除いた他の10か国で財政赤字幅が改善していると  分析している。ドイツは1996年は赤字幅が増大すると見られている。(第2図) ③政府債務残高については、1996年は、ベルギー、デンマーク、ギリシャ、アイ ルランド、イタリア、オランダ、ポルトガル、スウェーデンの8か国で政府債務残高 が若干改善し、フランス、ルクセンブルク、イギリスでは60%を若干下回る水準で 推移すると見られている。他方ドイツ、スペイン、オーストリア、フィンランドの4 か国ついては寧ろ政府債務残高が増加すると予想している。(第2図) ④ERMに参加していないのは、ギリシャ、イタリア、スウェーデン、フィンランド、イ  ギリスの5か国。(フィンランドは10月14日にERMに加入、またイラリアは11  月24日にERMに復帰した。) ⑤長期金利については、ギリシャ、スペイン、イタリア、ポルトガルが未達成。(第 1図) 結局、1996年に上記4つの経済収斂条件を全て満たすと予想される国はルクセン ブルクのみ、5つのう4つの条件を満たすと予想される国は、デンマーク、フランス 、アイルランド、オランダの4か国となる。 (2)今後の展望  前述の通貨統合のスケジュールによれば、欧州理事会はEMIが各国の97年の経 済計数を審査した報告をもとに、EMUの加盟国を決定することになっている。マー ストリヒト条約では、特に上記②の政府の財政赤字、政府債務残高に係る収斂条件に おいて、「財政状態の改善傾向が明確で目標値からかけ離れていないこと」が別途規 定されており、仮に収斂基準を満たしていなくても、改善傾向が顕著であれば、加盟 国として認められ得る可能性を排除していない。スペイン、イタリー、フィンランド 等の国は最近になってEMUへの第一陣加盟を強く希望するようになり、イタリアは 上記③の為替レート安定の条件を満たすため、11月24日にERMに復帰した。1 998年始めには、達成が最も困難な②の政府の財政赤字、政府債務残高に係る収斂 条件の条文の運用、各国の経済収斂条件に係る1997年の実績を巡って、厳しい交 渉が予想される。  この原稿は金融財政事情研究会のご好意により、「金融財政事情」1996年12月9日 号より転載いたしました。